最近友達と電話する機会があって、あーだこーだ雑談していたのだが、その時にやっぱり人の悪口は面白いということになって、たしかになーと思った。もちろん人を傷つけるような悪口はよくない。でもそういうことをあえて言ってのけるというような、面白味というかクリエイティビティというか、とにかくそういう批評的な面白さというものもあると思う。不平不満ばかり言ってるひとというのもある。そういうひとは意外と人気があったりするのが世の常である。言葉なんて結局文句を言うためにあるのである。
俺はなるべく諸事簡単に諦めたり満足してしまうタチである。それでも誰にも言いやしないけど、思っていることというものもある。たとえば最近のヒップホップに対して沸々と思うことがある。だいたいドラッグかビッチのことが歌詞にでてくる。あとマネーである。別に出てきてもいいけどみんなで毎回そんな話しかしないのでまーまー食傷気味である。カレーは美味しい。ラーメンも美味しい。でも毎日三食そればっかりじゃフツーに飽きるのである。ヒップホップというか不良カルチャーというのはかなりトライブ(部族)なアレがあり、トライブであるからにはしきたりがあり、そのしきたりには意外と従順である。なのでビッチとドラッグはヒップホップのマナーである。
とは言え、やっぱり歌詞なんだから、ポエムなんだから月並みなことばっか言っててもある意味まーまー仕方ないのである。ビッチとドラッグ意外はホーミーのこと、仲間地元とかそういうことである。ちょっぴり勘弁してほしいのである。あまり誇れたことではないが、俺はビッチもマネーもドラッグもホーミーも地元もないのである。更に生涯かけてのコミュ障である。人と交わるのがどうしても不得意である。それでも生きてるのである。そんななにもかもない俺に寄り添うようなヒップホップはないだろうか。などと最近は考えているのである。
思えば世の中すぐフレックスしたがるflex💪っていうのはこういうふうに二の腕の筋肉を見せつけるという意味の動詞である。本当はそういう意味ではないが、とにかく自分を誇示するという意味のヒップホップスラング由来の英単語である。yo I have a billion dollars and ten million follwers yo yo I gotta fucking 3 ferrari bro yo yoみたいな感じである。なんのスポーツなんだそれは。みんななんのためにいきているのだ。
いつから幸福はそんな役満じみた難しい役になってしまったか。セックスドラッグマネーフォロワービジネスファミリーエキササイズ…その挙げればきりがない項目のどれかひとつでも欠けていれば不幸だということだった。負けということだった。そんなのバカげている。本当は生きていればだいたい幸せだし、それより他のことはほとんどおまけみたいなものである。だからラッパー諸君!その詩学は論理的には破綻しているし倫理的には行きつくところがない。それよりは探せ詩人諸君。自分の言葉を探せ。本当の自分を探せ。謙虚になれ。自分の生きる経験を探し、それを表現する言葉をもて。それはビッチでもマネーでもない。もっともっとオリジナルなものであるのは明白なのだから。そしてそれが見つかれば、一筋の光が合い間から差すように、あなたを導くだろう。
かといってラッパーがこの文を読むことがあるんだろうか。たぶんない。ていうかそもそも誰も読まないかもしれない。まあそれでもなんだか書いたので、ネットにアップするものである。big up子規である。
最近、植木枝盛が日本の「近代詩」の始まりなんじゃないか?という人と話していて、植木はラッパーだよね、ということになった…のを思い出して、標題をポチりました(これって、死語なんだろうか?)
『歌よみに与ふる書』のことも、つい最近、話題に上がったところだったので、そうだよなあ、と思いつつ。‟基礎教養”として知っていなくてはいけない「古典」とか、それをもとにした掛詞とか縁語とか音韻やイメージによる喚起、援用で複雑に階層化され豊かさを増す、と同時に…タコ壺みたいな閉鎖空間に閉じこもっていった「歌よみ」たちの世界、その閉鎖性をぶち壊すためには「私」の体験、「私」の感覚、それを絶対基準とする、ことが必要だった…のかもしれないけど。それって、気づくと「私」しかいない空間、「私」だけの絶対的孤絶感覚の世界に自分がいる、そういう状況に「私」を追い込んでいってしまうのではなかろうか?
人の一生よりもずっとずっと長い言葉の「いのち」のことを考えます。人が、自分の思いや感じたこと、考えたことを習い覚えた言葉に託して、誰かに手渡そうとする。それをとりあえず、今風?に言えば「クラウド」に上げる。その言葉を、その人とは異なる時間と空間にいる人が「ダウンロード」して、自分の体験や経験と照らし合わせたりしながら、「私」の感じていること、考えていること、思うことを、言葉に託していく。言葉にしよう、としているのは「私」一人の行為だけれども、その行為を霧のように靄のように取り巻いている言葉を使ってきた人たちの痕跡…が在ることに気づいた時、「私」は孤絶ではなく、自ら選んだ孤独の中にいる、ことに気づく。
「私たち」の生み出したもやもやとした「いのち」に包まれて、「私」の生み出すものがある。
青木さんお久しぶりです 今朝散歩していたときに 言葉にとってもこの世界は自然なんだなあ と思いました 言葉が俺たちの体を通して出てきたりするのかなと 鳥の鳴き声をきいていました だからなんだという話はありますが 笑 素敵なコメントありがとうございました
ラップと聞いてこのサイトを思い出しました。
https://www.leon.jp/lifestyle/131773?page=4
「植木はラッパーだよね」趣深いです。