批評とはなんぞや ロマン主義批評編


初めに断っておきたいのだが、今から書く内容に答えはない。この世界には批評だとか批判だとか呼ばれる行為が存在し、時としてそれは創造的であることの対義語で使われる。例えば「またぞろ批評家たちがやってきて重箱のすみをつつき始めるぞ」などが典型だと思われる。この場合批評家とは何か新しいものを生み出すわけでもなく、ただ単にとある創作物などにケチをつけたり、うんちくを言ったりしてさも自分を偉いかのように見せる権威家として描かれている。そういうタイプの批評家がいることは否定するべくもない。


ならば話をそこで終えればいいのではないか、と思われるかもしれない。ただ僕には批評について言いたいことが2つか3つくらいある人間なのだ。理由の一つ目はとてもつまらない話なのでできるだけ巻きで話す。


僕はある時期とてもニッチな分野の本を読み漁っていた時期がある。それは「初期ドイツロマン派」と呼ばれるドイツのイエナ大学に通う学徒たちにより興った文学運動である。有名なのはティーク、シュレーゲル兄弟、ノヴァーリスなどだが、彼らにとって共通のとても大事なワードがあった。それが「Kritik=批評、批判」である。なぜ彼らがその言葉に強くこだわりを持ったか、と彼らはどういうニュアンスでその言葉を使っていたかは同時に解説することができる。彼らの時代に先立ってカントと呼ばれる哲学者が「純粋理性批判」と呼ばれる書物でとある歴史的な大転換を果たした。仔細は省くが、カントはこれまで宗教の名の下に世に幅を利かせていた神学、あるいはスコラ学を断罪した。カントが世間に影響を与えた最も世俗的な例を挙げると当時リスボンで発生したリスボン大地震がわかりやすいと思われる。当時まだ神学と袂を分かっていない哲学はこの地震における神の意志や、(神が創りし)世界の在り方について盛んに議論した。カントは神と地震は関係ない、と論文を立て続けに発表した。神学から自然科学を引き剥がそうとしたのである。それがのちの純粋理性批判へと繋がっていく。


カントの著した「批判(Kritik)三部作」と呼ばれる一連のシリーズはリスボンの大地震を端緒として、人間の認識や判断、および善悪など、それまで神の領域に属していたものをそれとは関係ないものとして断じていった。今でこそ自然科学と神学は別のものだと当たり前のように僕たちは思索することが可能だが、それが分たれていなかった時代にそれを為したことに大きな意味があった。これがカントが近代哲学の父と呼ばれる所以である。


一方イエナに集った若者たちは当然の如くカントが学術界に与えた影響を目の当たりにしていた。なので先ほどの問い→”なぜ彼らがその言葉(Kritik)に強くこだわりを持ったか、彼らはどういうニュアンスでその言葉(Kritik)を使っていたか” に答えるならば、「カントのように激烈に、世界を力強く、理知的に変革させなければならない」と信じていた/企図していた、となる。イエナの若者たちはとりわけ批評/批判の矛先を芸術作品へと向けた。具体的には当時大流行していたゲーテの「ヴィルヘルムマイスターの修行時代」という長編小説である。ロマン主義という言葉がドイツ語において長編小説(Roman)を指すのはおそらく偶然ではないだろう。そもそもロマン主義という言葉自体F・シュレーゲルの発明であるとされている。そして彼らの情熱は過去の名作や同時代人や自分たちの著作への批評/批判に注がれた。もちろん僕らが現代において知っている通り、そこから時代を揺るがすような激烈なパラダイムシフトは起きなかった。


一方後世にヴァルターベンヤミンと呼ばれる著作家が現れ、イエナに集った若者たちが芸術作品に向けた並々ならぬ情熱を「ドイツロマン主義」という論文にまとめた。確かに彼らは世界を揺るがしはしなかったかもしれないが、彼らの情熱故に生き残った作品があるという。「ヴィルヘルムマイスター」は言うに及ばず、ドンキホーテ、デカメロンなど不朽の傑作もまた彼らの手管によって生き延びた作品だとベンヤミンは記した。実際のところそれが本当かどうかわからない。が、イエナに集った若者たちが一番最初に書いたような典型的な「批評家」のステレオタイプとは幾分か違うところがあると認めてはいただけるだろう。彼らは芸術作品に人が生きることの真なる意味が内在していると信じた。


余談だが話をややこしくしている原因として「レビュー」という言葉が同じように「批評」と訳されることが挙げられる。というよりも批評家と聞いて「レビュワー」の方を先に思いつく方がほとんどなのではないかと思う。だからこそ声を大にして言いたいのだが、僕が「批評」という言葉を使う時その翻訳は「Kritik」であり、批評家はクリティカーであり、批評的言説とはクリティカルな言説である。最初に「重箱の隅をつつきたがる批評家」が登場させたが、それは謂わば「世の中のしきたりを第一と考えるロックシンガー」のようなものである。批評家とはカントがそうであったようにクリティカルに物事の芯を鷲掴みにして骨格ごと取り外すような豪放磊落なあり方を指す。


と、巻きで話すつもりがどうにも長くなってしまった。また今度。

次→「批評とはなんぞや 技術批評編1

8件のコメント

  1. 知らないことだらけでした。批評によって作品は歴史にとどまることができる、とすれば、批評には商業的な機能もあるようです(レビュー?重箱の隅をつつきたがる批評家?)。ukrさんの分類だと、カントの批評もロマン主義批評に入りますか?残りの詩編が気になります。

    1. お返事遅くなって申し訳ございません。
      商業的な機能ってのはきっと多分そうなんだろうなぁと思います。ベンヤミンなんかは作品が生き残るための餌だって言い方をしたりしますね。
      カントの批評は人間存在とか何か、認識するとは何か、みたいなものに向けられた批評なのでロマン主義の人たちがやった芸術批評とはちょっと違うと思います。
      ただロマン主義って言葉の中に「民族主義」が入っていたり「民衆主義」(それまでの貴族主義とは異なった)という意味が入っていたりするのでちょっと扱いづらいワードではありますね。

  2. お返事大変遅くなり申し訳ありません。武田地球さんの詩を解剖する夕ステを聴いて、あれはukariさんのいう批評なのかな批評ってなんだろうと思い記事を読み返しています。
    >批評家とはカントがそうであったようにクリティカルに物事の芯を鷲掴みにして骨格ごと取り外すような豪放磊落なあり方を指す。
    だとすればukariさんの「解釈」は批評だったのかなと。けれども僕は分析という行為に引っ張られていると感じます。カントの批評には1つになっているものを引き剥がして別個にして(骨格ごと取り出して)「その主張、あり方、どうなのよ」と異議・保留を申し立てる・批判する意図があるとしたら、武田地球さんの回のukariさんの意図は解釈する意図であって、書かれたもの(主張、あり方、何某か)への理解(理解とはなんだ?)を示していたのかなと。カントもukariさんも同じようにクリティカルヒットを出したと言えますが、意図が違う。それでも批評のテイストが乗るのは分析でありクリティカルであったからかなと。ukariさんにとっては詩という術式の研究・分析によるukariさん自身の技術の向上という意図があったのかなと。

    旧文学極道の煙さんの「評」を読みました。http://bungoku.jp/blog/20121012-398.html
    ここでの評は文字列が読み手に与える効果の評価であって、少なくとも純粋にカント的な批評ではない。という印象を受けました。ある種の理解を示すという行為は批評でないとしたらどんな文字列で表されるのかと、思い耽っています。カーヴァーの小説のように「理解」の一言で人を破壊する効果があるとしたら、それは解釈・評価以外の文字列を当てられても良い気がします。武田地球さんが自分でどこかがどこなのか「言わないほうがいい」と言っていたことも、印象的でした。

    話題がロマン主義批評とはずれてしまいましたが、お許しください。

    1. 僕はこの一連の批評シリーズでロマン主義的批評に加えて技術批評や分析批評、ないし率直批評(つまんないとか、いいね、とか)を横並びにしようと試みていたのでした。

      世界を変えるような批評もあれば、普段の生活の彩りを少しだけ変える批評もあるのではないでしょうか。僕にはそのどちらも尊いものだと思われて仕方ありません。

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