批評とはなんぞや 技術批評編1


先日、僕が考える批評とは何かを説明するために随分と退屈で長たらしい文章を書いてしまった。(批評とはなんぞや ロマン主義批評編)読んでくださった多くの方は、何を大層なことを抜かしてやがる、と思われたかもしれない。そんなに意地悪でないとしても、ちょっと大袈裟すぎやしないか? と疑問に思われたのではないだろうか。実際のところ「理論」と「実践」は全く別のものであることはよく知られている。ハサミの使い方をいくら書物で勉強して力の作用を余すところなく覚えたとしても、僕たちは実際にハサミで一枚の紙を切らない限り、2枚の鉄の重なりが本当に紙を切ることができるのかを実感することはない。だから今日は僕がハサミで一枚の紙を切るまでの話をしたいと思う。


僕はずっとインターネットで詩を書いてきた人間だった。もともと思想や哲学が好きだったのもあって、「詩とはこうあるべき」のような大鉈を振り回して自分の作品や自分の気に入った作品がいかに優れているのかをアピールしようとした。悲しい話である。そのような行動がどういう帰結を得るか、考えるまでもないかもしれないが僕のゴミのようなプライドは粉々に砕け散った。これは楽しい話である。ともかくとして、理論や理屈ではなく、明らかに自分には到底綴ることの叶わぬ文章を綴る人がいた。それもたくさん。


そして、その後は自分より圧倒的に上手い文章を綴る人たちがどのように文章、或いは単語単位で読み手を惹きつけ最後まで退屈させることなく読ませることを可能にしているかを観察した。その当時はネット詩にも活気があったので上手い人に直接聞けば、それが妥当か妥当ではないかはともかくとして、自分の詩の問題点がどこにあるのかを(ほぼ罵倒ではあったが)教えてくれたりもした。もちろん自分にも「これこそが詩だ」と信じ、ちょっとやそっとのことじゃ譲れないプライドのようなものはあった。あったが、仮にそのプライドが真に譲るべきではない、僕という固有の人物に備わった「ほんもののプライド」であるのならば、たとえ少しくらい誰かのアドバイスを聞き入れたとしても簡単にそのコアの部分が消え去ることはないはずである、と仮定した。そして結論を言うならば、それは「ほんもののプライド」ではなく、無知ゆえの偏屈なこだわりにすぎなかった、少なくとも僕の場合は。


このことから言えるのは「詩はあるところまでは技術」である。経験上、僕は誰でも習得可能な詩を書く上での技術を使うことによって、少なくとも自分が分かる範囲では良いものを書けるようになった。しかしこのようなことを語るとき、以下のような疑義が生まれる。「あなたは自分は詩がうまくなったと思っているかもしれないが、実際のところ昔書いていた無茶苦茶な文章の方がよっぽど面白かった」といった技術に対する疑義である。もっと簡潔に「技術に溺れている」などの言い方もできよう。


この疑義はかなりもっともな意見に思える。実際僕たちが生活しているなかで、例えばお気にいりのバンドが70年代のプログレッシブロックにインスパイアーされ随分とぶっ飛んだアルバムをリリースする、みたいな事態は本当によく起きる。でも自分が本当に好きなのはファーストアルバムに収録された「あの曲」なんだよなあ、と言った具合だ。レディオヘッドやニルヴァーナの名前を出すまでもなく、思い当たる節は各々あるだろうと思う。そしてこのような事態に「技術に溺れている」論を当てはめるとよく分かることがある。僕が仮に初期のレディオヘッドが好きだったとしても、トムヨークに「君は技術に溺れている」とはおそらく言わないだろうと思う。なぜならファーストアルバムのあの曲が好きなのは自分の好みであって、トムヨークが何かを見失って迷子になっているとは思っていないからだ。ただネット詩においてこの「好み」と「技術」の混同はとてもよく起きる。


このことについてはもっと深く話したいことがあるのだが、一旦話を本筋に戻すと、「文章はあるところまでは技術である」は本人が納得している限りにおいては否定しようがないのではないか。ある人が「技術に溺れている」と言われて自分の書いてきたものを深く疑い、自分の積み上げてきたものを全て放逐するほどのショックを受けるならば、「技術に溺れている」論は成り立つかもしれないが、それは「間違った技術(仮にA)を習得している」だけかもしれない。Aという技術は間違っていてもBという技術は正しいかもしれないのならば、「技術に溺れている」論はいよいよ成立させるのが難しそうである。


つまり本人が納得している限りにおいて「文章はあるところまでは技術である」というのがどうやら正しそうだ。そうなるとある批評の形が浮かび上がってくる。「技術批評」とも呼ぶべき批評のあり方であり、これは添削に近いような極めて一方向的なものでもあれば、ぼんやりとしたアドバイスや部分的な否定(なんかこれじゃない気がする)などより幅を持たせた形がありうる。これに関してはぜひ具体例を持って紹介したいと思ったのだが、少し本文が長くなり過ぎてしまったので次回にする。

次回→批評とはなんぞや 技術批評編2

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