批評とはなんぞや 技術批評編2


前回、技術批評とは何かとクドクドとつまらない話をしてしまいあとで読み返して大変申し訳ない気持ちになった。僕が技術的なアプローチで詩を批評する時、いつも念頭にある言葉があり、それは「何事も具体的に語らなければならない」である。小難しいことは置いといて、僕が今まで自分の詩について語られたことでとても参考になったいくつかの批評を紹介したい。


一つ目はB-REVIEW(通称ビーレビ)に投稿した拙作「姉の自慰」に寄せられた蛾兆ボルカさんという詩人のレスを紹介させていただく。以下にまずは作品全文を

姉の自慰

朝起きて
新規公開株のリストに目を通すと
姉の甘ったるい声が聞こえてくる
そういう朝がもう何度も繰り返されている

僕が眠りのなかで耳の穴から腕の生えている
素敵な生き物と素敵な会話をしている間も
姉の生活は途切れずに続いており
その様子は薄壁一枚隔てたこちらにも
ひそひそと秘められているのか明かされているのか
よくわからない感じで伝わってくる

だいたいはスマホのゲームの音とともに
もうしばらく家の外へ出ていない姉は
信じられないくらい明るくネットの仲間と溶け合っている
僕が眠りから覚めるときには 彼らの冒険や試練は
たくましい傭兵たちの昔語りのようになっている

姉の自慰がはじまる
新規公開株のリスト及び株式の情報には
姉の自慰についての重要な事柄は何も記されてはいない
指値をいれるとあっという間に約定して
だんだんと甘ったるくなって
仕手筋に絡めとられてただひたすらにつりあがっていく
本当にそんなに簡単につりあがってしまっていいものかい?
そんな問いかけに意味などないと言いたいかのように
声はうわずっていく
丁度チャートのN字曲線のもみ合いあたりで
すとん、と落ち着いたら
今度はうめき声のように
低く、けれどもそれはたぶん人の生にとって一番本質的な
あの、欲望の声をあげる
僕はというとすでに大概売り抜けて
新規参入者が刈り取られていくのを無表情に見ている

都内にマンションを買おうと思っている
姉の自慰の届かないところで
けれども姉の自慰がどこへもたどり着かない
漂流物のように
誰もいなくなったこの部屋で響いていることを想像すると
お腹のへそのゴマあたりがとてもいたくなる
宛先不明になった姉の自慰が 名も知れぬロックバンドによって
小さい箱で演奏されていることを想像する
姉の自慰はたぶん何かを伝えることも誰かを慰めることもできないけど
多分その小さな箱に集まった人たちの共通のムードとして
うん、姉の自慰だよね みたいな感じになるんだろう
それってやっぱり耐えられないから
僕はマンションを買うのを先延ばしにし続けている

自分で言うのも何だけれども多分この詩は「そこそこ巧い」し、題名なんて最高だと思う。もしよかったら皆さんもこの詩を書いていた当時の僕に「響く」批評をちょっとだけ考えてみてほしい。そう、大事なのは「響く」ことであり正解を見つけることではなかったりする。それでは蛾兆ボルカさんの批評を以下に引用する

今晩は。

タイトルが秀逸だと思いました。
また、ネットの投資でしょうか(詳しくないのですみません)お仕事の進みと、お姉様の盛り上がり具合が同時に描写されていく感じがとても上手く、言葉の真摯な離れ業となっていて、濃密な詩情を感じました。

一方で、 「お腹のへそのゴマあたりがとてもいたくなる」 と、いうフレーズには、少し小技というか、わざとらしさを感じてしまいました。
その後の、「このことの作品化」を思わせる、ライブハウスでの演奏についての云々も、少し興醒めな感じがします。
この語り手の優しい耳のすまし方からすれば、感じの良い、素敵なお姉さんというか、お姉さんの素敵な自慰じゃないですか。その寂しさや虚しさも含めて。 むしろ「曲にして演奏したい」ぐらいがしっくり来るように思います。

最後の一行はまた、ふわっとして、とても良い後味の作品だと思います。

実に芯をとらえた批評だと思う。あらためて客観的にこの詩を読んで感じるのは作者の「こんなことも書けるんだぜ」的な少し思い上がった自意識だったりする。そのような余分なものが「お腹のへそのゴマあたりがとてもいたくなる」などの見え透いたフレーズを生み出す。付け加えて言うならばそのような指摘をただ突きつけるのではなく、全体としてオブラートに包みつつ核心をついている点も「相手に響かせる」と言う意味でとてもスマートなやり方だと思う。


ただ恥ずかしい話だが、最初にこのレスポンスをもらった時、この批評が明らかに芯をとらえていることに気づいていなかったか、気づこうとしていなかった。たとえどんなに批評として優れていても、相手が自分と同じ土俵に立っていない限りそれは相手には響くことはない。この時はまだ僕には蛾兆ボルカさんの批評を受け入れることができるほどの技量がなかったと言える。


もう一つ紹介したいのは「文学極道」と言う今は止まってしまったサイトに投稿した拙作「サイテーだって知ってる」に寄せられた右肩ヒサシさんの批評である。まずは本文を引用する(ちなみに言うとこの詩は僕が女性のフリをして書いていた頃の詩なのでその辺はスルーしていただけるとありがたい)

サイテーだって知ってる

スーパーにお魚を買いに行く途中に
買い物袋を忘れたことに気づいて
アパートまで取りに戻り
ついでに履歴書に貼る写真も撮ってしまおうって
クリアファイルも持って出かけたら
空が嫌な感じで
さっきまで世界の果てまで快晴です
みたいな感じだったのに
雨が降るのはさよならのせいだね

急遽傘も持たないといけなくなって
窮屈になった身体が
少しだけ雨に濡れたりして
汗と一緒になって
すごく嫌な感じで
それとヒールなんか引っ掛けてきちゃったから
足元も気をつけないといけなくて
下ばかり向いて歩いていたら
排水溝のところで
タバコの吸殻がくるくる回っていて
すごく不健康そうにみえるあぶくが浮かんでもいて
そういう退廃にまた身を委ねてしまうのは
全部あなたのせいにしたくて

買い物も済ませて
履歴書に貼る写真をみると
こんな顔だっけとか
なかなかにありきたりな感想を抱いて
でも急に老けたりしなくてよかったな、とか
不摂生による甚大な被害を免れたことで
まだ自分は誰でもいい誰かに女として
必要とされる未来もあるのかなって思えて
誰でもいいというのはとても気楽だから
雨が止んだのはとてもいいことだと思う

家で一人になるとどうしようもなく空っぽになるから
テレビをつけてどうでもいい言葉を聞く
どうでもよくない言葉から逃げてきたから
そういうの、とても心地よく感じる
すごく無意味で、おやつみたいに栄養がない
誰かを傷つけるよりも
自分を傷つける方が100倍マシだね

3日前に連絡無しでやめたバイトから
しつこく電話がかかってきて
すごくいらいらしてしまうのは
それ以外の電話を待っているからじゃないんだ、って
あなたのこと着信拒否にして
自分が不幸になることに完全なアリバイをつくる

知り合いの男とホテルにいって
セックスもしたし
もう大丈夫
ちゃんと堕ちていけるよ

インターホンがなったからびっくりして
レンズ越しに覗いたら宅配便だった
ダンボールをめちゃくちゃに開いて
そういえば壁掛け時計を買ってたなって思い出した
同じ時間で生きていくんだもんね、とかそういう
正しさに裏付けられた言葉は強いね

そういうの
優しさとか、誠実とか
なんでそんなに簡単に透き通ってしまうかな
もっと人間らしく淀めばいいのに

この詩は巧いか巧くないかと言えば決して巧くはない。むしろその辺にいるOLがポエムを書いたとして「巧くはないのだけど言葉の節々にどこか光る感じ」が出せればいいと思って書いている。この詩に関しては先ほどよりも難しいと思うのだけどどういう技術批評がこの作者に響きそうか少しだけ考えてみてほしい。右肩ヒサシさんの批評は以下に引用する。

ユーカリさん、こんにちは。

 非常にプライベートな部分を、端正に整った言葉で見せて貰いました。
失恋という個の極地にあるものを言葉を使って振り返ってみると、それが案外既存の文脈に収まってしまう何でもないものであることに気づかされます。それは自他との間の共感に繋がりもするし、逆に自分の孤絶を際立たせたりもしますね。
>退廃にまた身を委ねてしまう
>誰かを傷つけるよりも/自分を傷つける方が100倍マシだね
という語句がまさにその「既存の文脈」にあたると僕は思います。
言葉は元来通信の手段で目的ではないはずです。それを目的化するのが文学ならば、僕はやはり個の特殊を一般化することにあらがう立場に与します。
>インターホンがなったからびっくりして/レンズ越しに覗いたら宅配便だった/ダンボールをめちゃくちゃに開いて/そういえば壁掛け時計を買ってたなって思い出した
こういう生の物語に
>同じ時間で生きていくんだもんね、とかそういう/正しさに裏付けられた言葉は強いね
という解説がいるのでしょうか?僕にとってはあくまでも時計は時計で、「失恋した日に時計が届いた」という事実のほうが解釈に先行して胸を打つのです。
 生の事実というのは恐ろしいほどの質量を持っていて、思念の空間にどこまでも展開していきます。その恐ろしさが作品に残らないと、本当の情感はなかなか伝わらないと思うのです。 

これもまたクリティカルである。
>同じ時間で生きていくんだもんね、とかそういう/正しさに裏付けられた言葉は強いね
という解説がいるのでしょうか?
に全てが詰まっている。ようやく今になってわかる。実際、このような作者の解説めいた言葉が作品を殺す現場をなん度も目撃してきた。この詩もまたある種の殺害現場である。


話は逸れるが、今ちょうどレイモンド・カーヴァーの最初の短編集を読んでいる。「頼むから静かにしてくれ」である。村上春樹が翻訳している。その中に「あなたお医者さま?」と題された短編がある。こんな話だ


出張に行った妻からの電話を待っていた男に知らない女から間違い電話がかかって来る。男はその番号をどこで知ったのか女に聞くが女は要領の得ないことを言う。女は自分たち二人が会う必要があるんじゃないか、と男に提案し、男もまた不思議なことにそれを了承してしまう。男は女のアパートに出かけそこで女が彼に電話をしたのは些細なアクシデントによるものだったことを説明する。男はそれに納得しアパートを去ろうと椅子から立ち上がり、彼女の淡い緑色の瞳を見る。最初は化粧だと思っていたものがくまだったとふと思う。彼は彼女の腰に手を回し、彼女は忙しなく瞬きをしたのち、目を閉じて彼にキスをさせる。それから何もなかったかのように男は去り、家に着いて妻からの電話に出る。


僕はずっとカーヴァーの何が良いのかわからなかった。でも右肩ヒサシさんの批評を踏まえてある一つの事実に気づいている。

物語はそれが固有のものである限りにおいて生きていられる

そして作者と呼ばれる人間は往々にして自らが生み出した物語を嬉々として殺したりする。もちろん「解釈の開かれたものが他のものに比べて優れている」と言うつもりは全くない。僕たちは推理小説に描かれる鋭い論理に貫かれた一貫性を好ましく思うし、SFの世界に描かれる奇妙奇天烈な世界の秩序の驚くような整然さを清々しく感じることができる。


ただ同時にカーヴァーの短編小説に描かれるような「仕舞われない物語」──右肩ひさしさんの言葉を借りるなら「一般化を拒む物語」──は僕にそれまでとは違う可能性を与えてくれたことはいうまでもない。重要なのは僕の中に新しいシナプスの回路がつながった事実だろうと思う。


前回定義した「技術批評」は添削やアドバイスを想定したかなり(赤ペン先生のような)実用的な印象を与えるものだったかもしれないが、ここに挙げたようなケースを見ていただければわかる通り、技術批評もまた深い思索や、詩文学へのクリティカルな理解から生まれたとてもエキサイティングな代物であることが伝わればいいと思う。


それじゃ疲れたので続きはまた今度

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