子宮をとってしまいたい 結


あーあー。あー。聞こえているだろうか? 今の時刻は2時過ぎで11時前にベッドに潜り込んだ僕は久しぶりの不眠を味わっている、もう久しく出会うことがなかった、頑として眠りを近づけない鉄のような不眠である。不眠との戦いはいつだって徒労に終わる、とはもうずいぶん昔に慣れ親しんだ真理で、それならば、とベッドの枕元にMacBookを持ってきてしまった。ブルーライトが眩しい。あーあー、あーあー、届いているだろうか? そんな疑問と同時に、夜には誰にも届かなくても構わない言葉がたくさん生まれることを思い出す。あーあー、みなさん元気ですか? 僕はまぁまぁな感じでやってます。あーあー、あーあー、、


それで。眠れないってのはとても厄介なことでさ。僕の人生には夏休みの自由研究の朝顔みたいに不眠が常に絡み付いていた。昼間に工場で足が棒になるまで働いて、できるだけブルーライトを浴びずに夜を過ごし、布団に入る1時間前に風呂で身体を温め、歯を清潔にして、眠剤を飲み、さあ寝るぞ、と思うとそいつは現れる。いつの間にか、図々しくてブサイクな犬みたいな顔をしてこちらを見つめている。ヤァ、みたいな顔をしてさ。それを見るといつも「思うこと」がある。でもその「思うこと」はずっと口にしては、或いは、思考にしてはいけないモノだったのでいつの間にか「思うこと」は胸のずっと深くに、意識の裏側にしまい込んで生きてきた。


だからだろうか。僕が出会い、そして友人になったり恋人になったりする女性の多くはその「思うこと」を実際に僕に対して口にした。以前書いた、このエントリーの題名にもなっている「子宮をとってしまいたい」という言葉もソレの別のカタチなのだろうと思う。彼女らは僕が丁寧に引き出しの奥にしまい込んでいるソレを目敏く、或いは独特の嗅覚で探り出し、自分たちが抱えているソレとの答え合わせがしたかったのかも知れない。僕はそのことにずっと気が付かなかった。彼女らが自らのソレについて言及するたびに、僕は悲しい気持ちになった、恥ずかしながら怒りを覚えることもあったと思う。つまり、恋人がソレを言うとき、僕は何をいうべきなのか分からなかった。だって、「生きていて楽しい」という言葉を聞きたいじゃないか、「幸せがどういうモノなのか今なら少しだけわかる気がするんだ」なんて言葉を。でも僕が聞くのはいつでもそういう言葉とは反対のソレだった。

あーあー、秋の夜は冷えるね、あーあーあー、、


僕の中にあったソレは僕に忘れ去られた。この世界の多くのトラブルがそうであるように、厄介ごとは忘れ去られた瞬間、それが意識のうちにギリギリ存在していた時の何倍もの力で人の生を揺るがす。「ロヒプノールを3シート飲んだら死ねるらしい」なんてネットで見つけた胡散臭い情報に加え、恐怖心を麻痺させるための多量のウィスキーを自分なりに処方して、それから丸々2日間病院で眠り続けた。身体には管がたくさん通されていて、目覚めて何を思ったのだったかもう覚えていないし、仮に覚えていたとしてもそれはきっと都合よくすり替えられた偽物の記憶だろう。ドアノブで尾崎豊のオマージュをしたこともあるけどそれも失敗に終わった。治療費だけがやたらかかった。後から振り返ってその行為が本気だったかどうかを確かめる術はない。確かなことは、僕にはソレの願望と同じくらいの恐怖心があったということだ。

あーあー、、でぃすいずぐらんどこんとろーる とぅ めいじゃーとむ


僕の中で僕を動かしていたソレは僕の臆病さに気がついてか知らないが、別の手段を取り始めた。ギャンブルである。それも極めて破滅的なギャンブルを。アコムやらアイフルやらそれこそアンダーグラウンドの貸金業にもお世話になって月の利息が月収を超えた。でもなんでだろうか、あの時の妙な満足感をいまだに思い出すことがある。これでもう何も損なうことはない。大丈夫、安心して、もう希望なんてないから。そういう感情が暗闇に芽生えた。この辺りのことは本当に記憶からすっぽり抜け落ちているのだけど、暗闇の中でおかしな笑いが込み上げてきたのを覚えている。この前後に処置入院をして、それから仕事を変えて数年間一円単位で切り詰めながら借金を返していった。この時の僕はそのような奴隷の生活が自分をより苦しめることに快楽を感じていた。そして最後には運もあって借金を完済した。ギャンブル狂時代にたまたま買っていた仮想通貨が数十倍に値上がりしたんだから人生万事塞翁が馬である。

あー、、一体なんの話をしているんだっけか。


そうか、恋人が「死にたい」と言うとき、「消えてしまいたい」と言うとき、「子宮をとってしまいたい」と言うとき、彼女らが本当は何について話していたのか、今なら少しだけわかる気がすると言う話だ。


あー、、あー、、、見当違いかも知れないけど、僕たちは自分の力ではどうにもコントロールできない事象に人生を揺るがされるときソレを強く感じる。鉄のような不眠、止められない性欲、愛をもらえなかった幼少期、虐待、性的虐待、洗っても洗っても洗い流すことのできない強迫観念、自分の容姿をどうしても醜いと思ってしまうこと、破滅的なギャンブル、アルコール中毒、、、、本当に数えていたらキリがない。外部の力でぐしゃっと潰されてしまうとき、僕たちの心は「もうここで終わりにさせて欲しい」と祈る。そしてこれはとても厚かましい解釈だけど、その祈りの本当の内容は「今この自分が嫌悪している現在のこの自分の在り方とは別の在り方で生きたかった」なのだろう。今になって少しだけよくわかるようになった、自分のことも、他人のことも。


あーーー、、ああーー、
今日は2023年の10月5日で(もう6日か)ノーベル文学賞の発表があった。例によって村上春樹の話題が俄かに立ち上がり、そして受賞しなかったという事実と共に風に紛れて消えていった。ただ、そんなことはどうでもよくて、村上春樹ほどソレについて深く、恭しく、愛撫するように書いている作家を僕は他に知らない。

人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、 脆さと脆さによって繫がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。

村上春樹. 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫) (Kindle の位置No.3826). 文藝春秋. Kindle 版.

彼女らが僕にソレについて話したとき、僕はその祈りを理解するべきだったんだと思う。そして僕の中にある祈りが、あなたの祈りとどこかで繋がっていることをただ伝えるべきだった。その傷を、歪みを。でも、伝えあったところでそれは救いではない。傷は傷を癒すことはできない。ただあなたの悲痛な叫びが明け方の静けさに変わるまで、あなたから流れる血が大地に落ちて乾くまで、その祈りと共に在らんと、何度も繰り返される暗闇の夜あなたと共に、約束を結ぶことができたならよかった。
あーーー、、、ああー、、あ、、あ、、

2件のコメント

    1. そんな、そんな、どうもありがとうございます。
      だとしたら、死んでしまいたい系の女の子たちが僕を使って書いたんだと思います。

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