HONDAスーパーカブc110 ja07 その2


冬の夜の街を何度も何度も行ったり来たりしているうちに、凍えるほど寒い夜なんて数える程しかないということを知った。ハンドルカバー、ネックウォーマー、使い捨てのカイロ、電熱ベスト。もちろんここは冬になると雪がうずたかく積もってしまうような土地ではないけど、それにしても最初に恐れていたほど冬の夜を禁忌することは無くなっていた。身体のあらゆる部位を布で包んでしまっているから風が皮膚を撫でていく夏よりも非現実的な感覚に陥る。時速数十kmで道路を走っているのに風も寒さもどこか遠い夢のようで。よく出来たVRのゲームみたいで。

とはいえバイク本体はどうもそういうわけにはいかない。氷点下を下回るような朝には露骨にエンジンのかかりが悪くなる。もう5年も前からセルでエンジンをかけた記憶なんてないのだが、こんなふうに冷たい日はキックでさえまともにかからない。2ストの原付は特にその傾向が強いようで、乗りたての頃に出先でエンジンがかからなくなり随分と焦った思い出がある。今はもう、少しだけスロットルを開けながら何度もキックを繰り返すことで少しづつエンジンが温まってやがて息を吹き返すことを知っているから焦ることはない。

信号が赤になって止まる。するとエンジンも止まってしまうから即座にスタンドを立て、またかけ直す。次に止まる時は停止中でもエンジンを軽くふかして冷たすぎる朝の気温に少しだけ薪を焚べてやる。まるで介護みたいで、老犬を労わりながら散歩させているみたいで。マフラーからは白い煙がトットットッと溢れては散り散りになっていく。もう随分と長い道のりを走った。

正月明けのHONDAドリームは混雑していた。HONDAスーパーカブc110はなかった。「もうあんまり無いんじゃないですかね」と言われ「人気なんですね」と応えて乗ってきた老原付に跨がった。はなから直営店にあるとは思っていなかったので特に気にせず、Googleマップに表示された「バイクショップ」の次の目印をタップして経路をなんとなく頭に入れた。世の中には思っているよりもバイクショップが多い。とはいえ販売は行っていないところや、随分昔に休業したようなところも含まれている。

十数店舗は回っただろうか。昼を過ぎ気温も暖かくなってエンジンも機嫌を直していた。この街は急な坂が多く、車の運転も荒い。だからたとえ死ぬほど燃費が悪くても2ストで良かったなと思う場面は多かった。次のバイク屋に到着して駐車場の端っこに原付を止めた。ディスプレイには原付2種は置いてなかったが、まだ整備していないバイクが店内にあるという。原付2種を探しているとしかまだ伝えていなかったので「カブならあるんだけどねえ」とバツの悪そうな声音で奥の方から白いカブを引いてきた。なんだか少し笑ってしまった。

型式を聞いたらja07だと教えてもらった。「中国に生産が移る前の」という枕詞がついたので国産というのがアピールポイントなのかもしれない。2021年まで現役だったja44も日本製だがその間に中国製が挟まる。今となってはありとあらゆるものが中国製なのでそのありがたみがいまいちわからないのだが、ともかく2010年代初頭のモデルだ。「これ、買います」と考える間も無く口にしていた。残念ながらバイクが「買って」と囁きかけてきた、といったエピソードは発生しなかった。ただ、考えるのが面倒くさかった。

整備にいくらか時間が必要とのことなので、その日は連絡先だけ渡して家に帰った。ネットでja07の市場価格を調べようかと思ったけど面倒だった。代わりに冬の冗談みたいに寒い夜をそいつに跨ってあっちに行ったりこっちに行ったりすることを考えていた。氷点下の橋の上の凍結した路面で滑って転んだとして「まぁ、それもそれよな」と思ってくれるだろうか。「くだらねえなあ」と仕事中に独りごちても気を悪くせず回転数を上げてくれるだろうか。

やがて電話がかかってきて、レッツ2のシート下のメットインを綺麗さっぱり掃除した。カブにメットインは無いから店で乗り換えるときに荷物があると困ってしまう。ずっと前に住んでいたアパートの鍵が出てきて、ご苦労さんとシートを閉めた。相変わらずキックでしかかからないエンジンをかけて、坂の多い道を辿る。先頭で信号待ちをして青になった瞬間から数秒間だけは相変わらずその道路で一番速い乗り物だった。


写真はスーパーカブc110 ja07

その3もあるかもしれません

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