神がいるかはわからないが、神の腕力は存在する 2


前回(子宮をとってしまいたい)の続き


1935年のアメリカである二人の男が出会った。彼らはお互いに共通のある問題を抱えていた。アルコール依存症だ。彼らはアルコールを辞めたいと思っていたが、自分一人の力ではそれを成し遂げることはできないと知っていた。彼らは自分達の経験を語り合った。本来誰にも話せるはずのない手痛い失敗談もあっただろうし、その中には耳を塞ぎたくなるような反道徳的な行為もあったかもしれない。とにかく彼らは分かち合った。そこで彼らはある力を認めた。それを神の意と呼ぶかは人それぞれの判断に委ねるとしても、彼らは少なくとも自分一人では到底乗り越え難い試練をなんとか耐えることができるだけの心の強さが自らに備わっていることを認めた。


上記の文章は、俗に言う「アルコホーリクス・アノニマス(以下AA)」のイントロダクションとして広く知られている逸話である。下に行けば行くほど僕個人の解釈が濃く反映されているが、大枠でAAに対する理解を損なうこともないだろう。AAをもっとわかりやすい名称で呼ぶと「アルコール依存症当事者の自助グループ」だ。その他にも「ナルコティクス・アノニマス(NA)」(薬物依存の自助グループ)や「ギャンブラーズ・アノニマス(GA)」(ギャンブル依存の自助グループ)などがある。「アノニマス」とは「匿名である」という意味で、自助グループ内では決して自らの本名や所属を語ることはない。


日本に暮らす一般的な人間の感性として、これらの自助グループを医者や専門家が中に入って指揮を振るう「治療機関」と取り違えることもあるだろうと思う。ただ本質的に自助グループは治療ではないし、もっと言えば「当事者同士の助け合い」でもない。彼らはほとんどの場合アドバイスを送り合うこともない。彼らはただ話し、ただ聞く。そしてここからがとても重大な事実なのだが、自助グループが採用している「12のステップ」は驚くほど宗教的な色合いが強い。自分では抑えることの出来なくなった嗜癖や、衝動を取り除いてくれる存在は単に「神(God)」と表現される。


誤解のないように言っておきたいのだが、僕は自助グループの宗教的な色合いを批判したいのではない。そうではないのだ。自助グループの逸話について考えるたび、依存症の専門医が著作で患者には結局自助グループを勧める、と書いてあるのを読むたび、そして僕自身ある依存症当事者としてアノニマスとなり自らの経験を語るたび、あるひとつの疑問に出会うことになる。何故、一人の依存症患者が自らの無力を知り、苦しみの果てに祈りを捧げたとき、神は彼を救わなかったのだろうか。言い換えるならば、何故、神は彼が同じ苦しみを共有するもう一人の誰かと出会いその経験を分かち合ったとき、彼を救う気になったのか。自らの経験、特に失敗や弱さを共有するとき、僕たちは自分では想像もしていなかったほどの力がそばにあることに気づく。


現代に生きる僕たちは少なくともこの自助グループにおける「救いのシステム」を過小評価している。あるいは赤軍の「自己批判のシステム」や新興宗教の「洗脳のシステム」を思い浮かべて苦笑いをする人もいるかもしれない。僕は専門家ではないので確かなことを言えるわけではないが、これらの人生に干渉するメカニズムには全て、共通のある力を前提としているのではないか。連合赤軍の事件やオウム真理教の事件を前に僕たちは眩暈を覚えるような「落差」を直感する。そしてそこにはシンプルな事実が潜んでいる。つまり、僕たちの在り方を想像もつかない腕力で変容させるある力が存在する。


神が存在するかどうかはわからないが、神の腕力は確かに存在する。トンチのような話になってしまって申し訳ないが、同じ志を持ったかつての仲間をリンチして死に至らしめたり、地下鉄に猛毒を撒くに至るにはどう考えても僕たちの想像では及びもつかない力があることを認めざるを得ない。これらの力は二人以上の人間が自らの弱さや過ちを赤裸々に語るところに顕れる。それがただ純粋に「アルコールを辞めたい」と祈る敬虔な人々のもとにだけ顕れるのであればどれほど良かったことか。


誤解を恐れずに言うならば、ユダヤ教に由来する宗教をもつ国々が「神」と呼び慣してきたもの、あるいは日本人が「和」や「公」と呼び畏れてきたものの由来がここにあるのではないかと思うのだ。科学技術が発展した現代において、僕たちはもうどこにも神聖で侵し難い領域など無いような気になっている。僕がそうであったように、そのような人ほど他者と関係しあうことで顕れる不可解なほど強い力(良きにつけ悪しきにつけ)を過小評価している。「救い」や「自己批判」や「洗脳」は確かに強大な力を持つかもしれないが、それらはあくまで特殊なケースに限られるのではないか、と考える人は「しつけのシステム」や「教育のシステム」或いは「恋のシステム」についても同じことが言えるか考えてみればいい。僕たちはどこかの特殊なタイミングで巨大な力に出会いねじ曲げられるのではない。言うなれば、僕たちはもうねじ曲げられている。僕たちが最初に他者と出会い相互影響の関係を持った最初の瞬間から「神」であれ「公」であれ、それらは僕たちの物語に内在している。


続く


ukari

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