物語が俺たちの体をドライブしている 4

僕らはずっと「ありのままの感情」や「自分だけの感受性」などが生まれつきそれぞれの個人に備わっていると教えられてきた。少なくとも僕の世代はそうだった。そういった自分固有のもの、ありのままの感情を、誰か他の人に委ねてしまうことはとても恥ずかしいことなのだとなんとなく思ってきた。例えば、レビューサイトの点数ばかりを気にして、周りの評価が高いものが良いものだと思い込んで、自分こそは良質なカルチャーや、良質な作品を摂取していると吹聴する人がいたとして、その人を「感受性豊かな人」と感じるだろうか。少なくとも僕はその人をどこか「乏しい人」と感じるだろうし、ちょっとした軽蔑すら感じていたかもしれない。


けれど最近、その感じ方は何かとても重要なことから目を背けているような気がし始めた。つまり僕たちは本当に生まれ持った感受性なんかで音楽や、映画、漫画などのカルチャーを先天的に、絶対的に、あるいは内在的に、評価しうるのかと疑問に思うようになってきた。きっかけは最近話題になりがちな「Z世代のネタバレ消費」のような記事のアンケートだった。「ネタバレ消費」とはファスト映画やネタバレありのレビューをあらかじめ見た上で、その作品に触れることらしいのだが、当然僕らの世代にそのような風潮はない。だから語り口としては「失敗を恐れる若者たち」とか「120点ではなく80点で安心したい若者たち」みたいなものになる。自分の中にないものを自分の言葉で語る時、どうしても侮ってしまう、ある種の傾向が見られるだろう。


その中で特に僕に示唆を与えてくれたのはゲーム実況についての若者の認識をアンケート調査したものだった。残念ながらどのサイトで見たのか失念してしまって、元のソースを提示したくても出来ないのだが、僕の思慮の道筋に役立ったことを伝えたいだけで、アンケート結果そのものの信憑性について議論したいわけではないのでご了承いただきたい。その記事ではストーリーが重要な意味を持つゲームのゲーム実況を見た上で、そのゲームを買ったことがある層に「何故、買うかもしれないゲームのストーリーを先に視聴しようと思うのか」という質問があった。「あまりびっくりしたくないから」とか「ちゃんと面白いか確かめてから買いたいから」とか、先ほども書いた通り、自分の中にない感性を言葉にしようとすると陳腐なものばかりが浮かんでくる。


「その方がより深く物語を理解できるから」
もちろん先述した理由もなくはなかったが、一番上に来たのはこの回答だった。正直目から鱗が落ちた。何故ならずっと書いている通り、僕はこれまでゲームや映画や小説などの物語は、出来るだけニュートラルな状態で体験して、自分の心がどう揺れ動くかが重要だと思ってきた。それが自分に固有の感情だと思っていたし、その部分を他者に委ねることはなんとなく「軽薄」な行為だとすら思っていた。「ありのままの感情神話」だ。けれどよくよく考えると、この若者たちの行動様式は別に全然軽薄なものでもないし、むしろ本質に近しいものではないかとさえ思える。つまり感情とは技術であり、習得していくものなのではないか、と。


そう考え、自分のこれまでの行動を思い返すと、びっくりするくらい思い当たる節がある。それがまさに前回テーマにした「ワーニャ伯父さん」だった。

さらに言うならば、僕たちは幼少時代に当たり前のように感情を習得してきた。そういう覆しがたい経験をしてきたはずなのだ。地面を這い回る蟻を潰してしまったとき「可哀想だ」と思う感情を生まれながらに抱いていただろうか? 「ストーリー」という、時に複雑で飲み込みがたいものを自分の中に落とし込むような「理解」だけを技術と呼んでいるわけではない。もっとプリミティブな憐憫や、愛惜の念でさえも、実のところ僕たちは技術として習得してきたのではないだろうか。


実際のところ、それがどう言う仕組みで成り立っているかの科学的な検証ができるわけではなく、僕はひたすら仮説を立て続けることしかできない。ただ飛躍を恐れずに言うならば、おそらく「自分がどのような人間であるかという認識」つまり「自己認識」すら技術という言葉の射程に収まるのではないかと思っている。それに関しては前々回に話題にした「自助グループ」の話でも少し書いた。

もっと踏み込んでいうならば、僕たちは一人で思い悩んでいる時点ではまだ「依存行動を辞めたい」とすら思っていない。その苦悩や悔恨や決意を他者に話したとき、その「自己認識」は「アクティブ」なものになる。つまり他者を介してのみ「自己認識」は自分の中で「物語化」するのではないか。自助グループの成り立ちやシステムは端的にその仮説に信憑性を与えている。

「ワーニャ伯父さん」のラストシーンは一体なんだったのか、或いは、自助グループの持つ不可視な力の正体はなんなのか。今ならようやく答えが出せそうな気がしている。自らを他者に語るとき、僕たちは初めて「自己という物語」になる。また同時に、他者に対置して語るまだ物語化されていない自己認識も原理的にはもうすでに他者を内在している。僕たちの中に確立した自己がありそれが他者と比べてオリジナルと呼ばれるのではない。影響を受けていないことが「ありのまま」なのではない。自己は他者を原理的に孕んでいる。僕はそれを「結び目」と呼ぶ。一本の糸を僕たちの生命に見立てたとして、糸の一本一本が何か固有なものであるわけではない。それらがもし仮に固有な機能、あるいは美であったり実用を持ちうるのだとしたら、その本質は糸そのものではなく結び目の方だ。


結び目を大事にしよう、と道徳家のようなことを言いたいわけではない。幼少期の親とのこじれた関係や、新興宗教における洗脳など思い浮かべれば、それがただ単純に良きものとされるにはあまりにも影響が大きすぎることには気をつけないといけない。


先日、祖母が亡くなった。通夜があり親戚が集まった。人がたくさんいるところが苦手なので早めに暇をもらい、祖父に鍵を借りて少しの間、誰もいない祖父母の家に入らせてもらった。僕は幼少期の記憶がかなり鮮明な方で、身に覚えのある場所などにいるとフラッシュバック的に記憶を思い起こすことができる。僕がそこで祖母のことをどう思い出したかは内緒にしておくとして、そういえば前にもこんなことがあったな、とデジャブに襲われた。


誰もいない祖父母の家で「人の生きた記録が物語になるのではなく、物語が俺たちの体をドライブしてる」なんて文章を書いたことを思い出していた。

あのとき表現したかったのはもしかしたらこういうことだったのかもしれないな、と。人生は良いことばかりではないけれど、それでもやはり、それは総体として良いことなのだなとこれまで30年以上生きていて初めてそういうふうに思っている自分にびっくりしている。


前回(ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ)の続きです


続く


ukari

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